白和瀬(しらわせ)神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀っており、今から約1200年前に書かれた延喜式神明帳(えんぎしきしんめいちょう)に信夫五社(しのぶごしゃ)として記されている由緒ある神社です。
それでは、この神社につたわる日本武尊の伝説をご紹介しましょう。
遥か昔のことです。その頃の福島盆地は太平洋から続く内海だったといわれ、この地域からも貝などの化石が数多く発見されています。
タケルは東の国々を平定し、都に戻る途中、舟でこの内海を渡り大笹生の浜にたどり着きました。
この浜は、波も無く淵のように水を湛えており、舟を着けるには絶好の場所だったことからここを浜の淵「浜渕(はまぶち)」と名づけ、今もこの地名が残っています。
タケルが着いたのは雪の舞う季節でした。この地で冬を越さなければならないタケルのために、人々は風雪が凌げるよう小屋を建て心から迎えいれたのでした。そして無事に冬を越すことが出来たのです。ここの地名は「雪小屋(ゆきごや)」といいます。
雪が上がり銀世界になったある日、タケルは澄み切った青空のかなたを見つめ、心の琴線に触れる人々とのふれあいの日々を「ああ、住めば都なり」と言ったのでした。この「住めば都」は、現在も日常のことばとして残っています。
また、「タケルはここに居(お)り」、住めば都の都(みやこ)を「と」と言い、折戸(おりと)という地名が残りました。
これら「浜渕」「雪小屋」「折戸」という場所は、大笹生地区の一部、概ね400メートル四方の範囲にあり、現在も住所として使用されています。
このようにヤマトタケルの伝説が生活の中に深く生きづき、縁は1300年前の大化改新頃までにさかのぼるといわれています。
この地区の人々はヤマトタケルを、645年の大化元年にこの地の霊山・烏帽子ヶ岳(えぼしがだけ)の頂上に祭神として祀りました。しかし、山深い地であったため1580年代の安土桃山時代に参拝者のために、現在の折戸地区に白和瀬神社として遷宮されたのです。
この烏帽子ヶ岳は古い時代から田んぼを潤おす八反田川の水源であり、早生種(わせしゅ)のコメが作られていました。それを示すかのように白和瀬と書かれた木簡も発見されており、白和瀬神社の名前の由来となったと推察されます。
歴史の年表を携えこの地を訪れたとき、悠久の歴史とロマンを感じることが出来るでしょう。さあ、あなたも出かけてみませんか。
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